昭和43年8月31日 夜の御理解
日々感謝の生活を出来ると言うことは、私ども人間の一番幸せだと思う。日々感謝の生活が出来ると言うことはというて、一日中ありがたいと言うわけにはなかなかいきません。忙しさに紛れたり、または、寂しい思いをしたり、また、腹立たしい思いをすることもあるけれども、そういう意味で私は夜の御祈念と言うものはありがたいと思う。朝晩の心行というかね。お勤めと言うか、皆さん朝のすがすがしさ昼の忙しさ、夜のありがたさというように夜のありがたさと言うものが、神様の前に申し述べられる。感謝の意を現わして日々をあきらめ暮らして行くことが出来ると言うような私は日々喜びの積み重ねが出来て徳にもなり、また、幸せの土台にもなってくるのでございます。御神殿で静かに御祈念させてもらようると一日の事が次々とこう思いおこされて参ります。そして、今申しますようにさみしいこともあったり、腹のたつようなこともあったり、今日はもう忙しゅうて忙しゅうてということであったのですけれども、そのどれを言うても、どれをとりましても信心させて頂いておるものは、それが、結局は、ありがたいものになっておらねば、ならない。腹の立つような問題があったときに自分が反省させられたり、悲しい思いをするときに今まで気づかなかったことを気づかせて頂いたり、いわゆる信心するものは木の切り株に腰を下ろしても立つときにはお礼を言うような心になれよとおっしゃる。私はそういうような日々でなからなければ、ならないと思う。そう意味で夜の御祈念と言うことはありがたい。ですから、夜のもしも御祈念は夜の御祈念にですよ。たとえば、そういう締め括りが出来ないでおるようなことでは信心している値打ちがないと思うですね。たとえばね。朝顔の花が朝露を含んでこう聞いておる。というて、そんなら、朝顔の花がいつもそんなに昼になっても夜になっても咲いておると言うことはない。日中、暑い間などは、しぼんでおるけれども、それは、決してしぼんでおるのではない。生き生きとした芽が上に養分を送っておる証拠に明日は次の花が咲く。朝露というお恵みによってまた、次の花が咲いていると言う様にね。丁度朝顔の花のようではなかろうか。日々がね。咲いておるかというてずーっと一日中さきっぱなっしではない。それでなくてもいい。そこが生身であり、そこが人間なんだから、悲しい思いもいい。腹のたつこともあってもいい。けれども、そういうことがですね。夜一日を締め括って見ると本当にあんな様なことで悲しい思いをしたり、あのようなことで腹をたてたり、本当に相すまないことであったとこうお詫びするような心が生まれて来たり、そのような問題を通して、いろいろわからして頂いたことがありがたいと心から、お礼を申し上げれるような日々でありたい。そういう意味で夜の御祈念は皆さん、本当に大事にしなければならないと思うですね。それが信心生活だと思う。もう一つ切り株に腰をおろしても立つときは礼を言う心持ちをおっしゃるのですから、一日を締め括ってから、一日と言う間をどのように過ごして来たか、そして足りなかったところはお詫びさせてもらい、おかげであったことはお礼を申さしてもらい、また、明日の事を願わして頂きながら、睡眠につかせてもらう。いわゆる、休ませてもらう。そういう日々をくりかえさしてもらう。その意味で夜の御祈念を大事にしなければならないと思うですね。そして、今私が申しますように朝顔様にならならん。人間だから、腹を立てる。さみしい。いらいらする。忙しければ、つい金光様も忘れてしもうとると言うようなことがたとえば、あってもそれはちょうど朝顔の花が朝咲いて昼はしぼんでおるようなもの。根が心の底に生き神金光大神があれば、天地金乃神があれば、目をつぶって自分というものが冷静に静かに考えるとそこから、金光様が湧いてくる。金光様ありがとうございますというお礼が言える。そういう日々を繰り返させて頂くおかげのいうならば、夜の御祈念は喜びの何というかね。電気でいうなら、まあ変電所のようなもの。そこで一応信心の喜びを確かめて見たり、またそこで喜びというものを改めて強くしていったり、するわけなんです。そういう日々だけはお互い一つ頂いて行かなければいけないと思う。それをなおざりにするようなことがあっては信心させて頂いている値打ちがないと思う。どうぞ。